名古屋地方裁判所 昭和48年(ワ)2353号 判決
原告 木村明桂こと 李明桂
右訴訟代理人弁護士 森健
右訴訟復代理人弁護士 伊藤貞利
被告 米倉金示
被告 東忠司こと 鄭均漠
右訴訟代理人弁護士 野呂汎
青山学
被告 名古屋市
右代表者市長 本山政雄
右訴訟代理人弁護士 鈴木匡
大場民男
鈴木匡訴訟復代理人弁護士 山本一道
鈴木順二
主文
被告米倉金示は原告に対し金三八九六万円及びこれに対する昭和四五年四月三〇日から完済に至るまで、年五分の割合による金員を支払え。
原告の被告鄭均漠同名古屋市に対する請求をいずれも棄却する。
訴訟費用中、原告と被告米倉金示との間に生じた分は同被告の負担とし、原告と被告鄭均漠同名古屋市との間に生じた分は原告の負担とする。
この判決は原告勝訴の部分につき、仮に執行することができる。
事実
第一当事者の申立
原告は、「被告らは各自原告に対し金三八九六万円及び、これに対する昭和四五年四月三〇日から完済に至るまで、年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求め、被告鄭均漠に対しては、予備的に、「同被告は原告に対し金一〇〇万円及びこれに対する昭和五〇年四月一六日から完済に至るまで、年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求めた。
被告米倉は、「原告の請求を棄却する。」との判決を求め、被告鄭及び被告名古屋市は、いずれも、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」
との判決を求めた。
第二当事者の主張
(原告の主張)
一1 別紙目録記載の山林(以下、本件山林という)は、訴外水谷たまの所有に属するものである。
2 訴外大橋茂磨、同櫟木孝保、被告米倉らは共謀して、水谷たまの印鑑、委任状その他登記関係書類を偽造し、昭和四五年四月二二日これを行使して、本件山林につき、勝手に水谷たまから被告米倉に対する所有権移転登記を経由した。
3 そして、前記三名と被告鄭、訴外金京元らは共謀し、同年四月三〇日原告に対し、本件山林が被告米倉の所有の如く仕做してその買受方を申し入れ、原告をしてその旨誤信させ、因って、即時、右代金名下に金三八九六万円を交付させてこれを騙取し、原告に同額の損害を与えた。
4 よって、原告は共同不法行為者たる被告米倉、同鄭各自に対し、損害賠償として金三八九六万円及びこれに対する昭和四五年四月三〇日から完済に至るまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 仮に被告鄭に対する前記請求が理由がないとすれば、予備的に原告は次の請求をする。
1 被告鄭は、原告と被告米倉との間になされた本件山林の売買を仲介したとして、昭和四五年五月四日被告米倉より仲介料名下に金一〇〇万円の交付を受けた。
2 しかし、右売買は、被告米倉らのした犯罪行為によるものであって、公序良俗に反する法律行為であって無効であり、また、原告において本件山林の真実の所有者を被告米倉であると誤信して売買契約を締結したものであるから錯誤によっても無効である。
3 右のように本件山林の売買は無効であるのであるから、被告鄭において右売買を仲介したとして被告米倉から支払いを受けた仲介料金一〇〇万円は、法律上の原因なくして取得した利得である。したがって、被告鄭は被告米倉に対し右金一〇〇万円を返還すべき義務がある。
4 原告は被告米倉に対し前記一に記載した損害賠償請求権を有するが、被告米倉は無資力であるので、原告は同被告に対する右債権を保全するため、同被告に代位して、被告鄭に右金一〇〇万円及び、これに対する昭和五〇年四月一五日付準備書面送達の日の翌日たる同月一六日以降完済に至るまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
三 被告名古屋市は国家賠償法一条(ないし民法七一五条)に基づき、原告の蒙った前記損害を賠償すべき義務がある。
1(一) 大橋、櫟木、被告米倉らは共謀のうえ、同年四月六日昭和区役所において、行使の目的をもって、印鑑届用紙の所定欄に、擅に、「名古屋市昭和区北山町三丁目二〇番地北山コーポラス四〇三水谷たま」と記載し、その印鑑欄に予め用意しておいた水谷名義の印を押捺し、もって、同人名義の印鑑届一通を偽造し、櫟木において同日、同所で同区役所係員に対し、右偽造にかゝる印鑑届をあたかも真正に成立したもののように装って提出行使した。
(二) 当時施行されていた名古屋市印鑑条例(昭和一四年五月一日条例第四号)(以下、「条例」という)四条一項には、「区長、前二条ノ届出ヲ受理シタルトキハ、其ノ届出ガ本人ノ行為ナルコトヲ確認シタル後、印鑑簿ニ之ヲ登録スベシ」とあり、更に、名古屋市印鑑条例細則(昭和一四年五月一日告示一三一号)(以下、「施行細則」という)五条は、「区長印鑑届ヲ受理シタルトキハ遅滞ナク本人ニ照会シ、其ノ届出ガ本人ノ行為ナリヤ否ヤヲ確認スベシ。但シ本人ニ面識アルトキハ此ノ限ニ在ラズ。」と規定している。右の施行細則五条但書は本人自身が出頭して届出をなす場合において、区長が本人と面識がある場合には、届出行為が本人のそれであることを現認しているために、改めて届出行為が本人の行為であるか否かを確認する必要がないため、右のように規定しているのである。したがって、「条例」、「施行細則」が要求している「確認」は、本人の届出行為を確認する場合に比肩し得る程度の厳格さが要求されることは当然であり、その確認方法としては、単に本人照会の手段のみでこと足りるものでなく、右本人照会以前の確認手段として、最も直接、有効な手段は、窓口係員によってするその面前での届出名義人と現実の届出人との同一性につき確認する方法である。
(三) 本件において、印鑑届出人の水谷たまは六九才(明治三四年七月八日生れ)の女性である。しかるに、現実に、前記区役所窓口に印鑑届を提出した櫟木は当時四〇才(昭和五年二月五日生れ)の男性であるから、届出名義人と実際の届出人とが同一人でないことは一見して明らかである。しかるに右係員は、櫟木に対し水谷たまとの関係につき尋ねることもなく、また、代理委任状を求めず、両者の関係につき全く確認手続をふむことなく軽卒にも、即時右印鑑届を受理し、印鑑届受付簿に登載するに至った。この点において、印鑑届受理事務に当る右係員の過失は否定できない。
2(一) 大橋、櫟木、被告米倉らは共謀し、前同日、前同様の手段を用いて水谷たま名義の印鑑証明書交付申請書一通を偽造し、櫟木において右偽造にかゝる申請書をあたかも真正に成立したもののように装って同区役所係員に提出した。
(二) 前記条例七条は、「登録ヲ為シタル印鑑ハ請求アルトキハ区長之ヲ証明ス。但シ、左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ此ノ限ニ在ラズ」として、その例外事由の五に、「其ノ他区長ニ於テ不適当ト認メタルトキ」と規定している。右の「不適当」であるかどうかは厳格に判断すべきである。
本件において、本人は、六九才の老婦人であるのに、昭和五年生れの壮年の男子が申請している点において、一見して別人であることが明らかであるから、前記区役所係員としては、申請人の代理権の有無、本人の委任状の有無を確認するなど、本人と申請人との関係を確認する方法をとるべきことは当然であり、それをしない以上「証明スルヲ不適当」として印鑑証明を発行すべきではなかった。しかるに右係員は何らの確認方法をとることなく、即座に、水谷たまの印鑑証明書を発行しこれを櫟木に交付してしまった。
3 以上のように、同区役所係員において、偽造にかゝる水谷たま名義の印鑑登録申請を受理し、ないし印鑑証明を発行したため、櫟木、被告米倉らにおいて、これを使用して登記簿上、本件山林の所有名義を水谷たまより被告米倉に移転することが可能となり、因って、原告をして本件山林が被告米倉の所有であると誤信させてこれを買い受けさせるに至ったものである。右によれば、右印鑑登録及び印鑑証明と原告が本件山林を買い受けたことによって蒙った損害との間には相当因果関係があることが明らかである。すなわち、原告が売買代金名下に本件代金を被告米倉らに交付したのは、本件山林の所有名義が同被告に存したからである。そして本件山林の真実の所有者水谷たまより、同被告の所有名義に移転するについては、水谷たまの印鑑証明書が不可欠である。換言すれば、前記係員の印鑑証明書の過誤発行がなければ、被告米倉に所有権移転登記をするための保証書も作成することができず、また、被告米倉名義に移転登記をすることはできなかったのである。ところで、印鑑証明は不動産取引においては、その登記名義人が登記義務者として登記を申請する場合などに印鑑証明書の提出が求められる等、不動産売買において制度的に重要な役割を果していることは公知な事実であるから、印鑑証明書が不動産売買に使用されるであろうことは通常予想されるところである。
以上の次第で、本件印鑑登録の受理及びその証明と原告の蒙った損害との間には相当因果関係があるものといわねばならない。
4 以上によれば、被告名古屋市の公務員たる前記昭和区役所係員は、名古屋市の処理すべき印鑑登録及び印鑑証明書発行事務を行うについて過失があり、これにより原告は損害を蒙ったものといわねばならないから、被告名古屋市は国家賠償法一条(ないし民法七一五条)により、右損害を賠償すべき義務がある。
(被告米倉関係)
被告米倉は原告主張事実については答弁しない。
(被告鄭の主張)
一 原告主張一の1、2は不知、3は否認する。
二 同二の1のうち被告鄭が被告米倉より金一〇〇万円を受領したことは認めるがその余は争う。同2ないし4は争う。
(被告名古屋市の主張)
一 原告主張一の1ないし3は不知。
二1 同三の1(一)のうち、昭和四五年四月六日昭和区役所において昭和区長に対し、所定の印鑑届用紙の住所欄に、「名古屋市昭和区北山町三丁目二〇番地北山コーポラス四〇三」と、世帯主欄に「水谷たま」と、氏名欄に「水谷たま明治三四年七月八日生」と各記載され、印鑑欄に水谷名義の印影が押捺された印鑑届が提出され、窓口係員において審査のうえ右印鑑届を印鑑届受付簿に登載したことは認め、その余は争う。同1(二)のうち「条例」ないし「施行細則」に、原告主張の如き規定が存することは認めるが、その余は争う。同1(三)のうち、水谷たまの印鑑証明書交付につき、被告名古屋市が水谷たまの代理権を証する委任状を受け取っていないことは認めその余は争う。
2 同2の(一)のうち、昭和四五年四月六日昭和区役所において昭和区長に対し、所定の印鑑証明書交付申請書用紙の住所欄に、「昭和区北山町三―二〇」、氏名欄に「水谷たま明治三四年七月八日生」と各記載され、登録を受けている印鑑欄に、水谷名義の印影(印鑑届の際押捺されたものと同一の印である)が押捺された印鑑証明書交付申請書が右水谷名義の印章とともに提出されたことは認めるが、その余は争う。
同(二)のうち、昭和区役所係員が水谷たま名義の印鑑証明書を発行したことは認めるが、原告主張の如き確認義務あることは争う。
3 同3、4は争う。
三 原告が主張するように昭和四五年四月当時の印鑑登録証明事務は「条例」及び「施行細則」に基づいて行われていたが、右は、大略次のような手続であった。
1(一) 印鑑届出人による手続
印鑑の登録を受けようとする者は、印鑑届の所定の記載欄に所定事項を記載し、登録しようとする印鑑とともに、住所地の区役所に提出して届出る。
(二) 区役所における取扱い
(1) 届出を受けたときは、次の事項を審査のうえ印鑑届を受理する。
(イ) 届出人が住民基本台帳に記載された者であること
(ロ) 登録するに不適当な印鑑でないこと
(2) 受理したときは、本人(届出人)に照会し、本人の行為であることを確認した後印鑑を登録する。
なお、右照会の手続は、(イ)印鑑届記載の住所へ、照会書を通達員をして宅送すること、(ロ)照会書は封筒に入れ親展扱いとすること、(ハ)本人は回答書(照会書の下半分を使用)を区役所へ持参し又は郵送する方法によっていた。
2(一) 印鑑証明の手続
印鑑証明書の交付を受けようとする者は、交付申請書に所定の事項を記載のうえ、印鑑とともに、住所地の区役所へ提出する。
(二) 区役所における取扱い
申請があったときは、次の事項を審査のうえ印鑑証明を行う。
(1) 申請のあった印鑑の印影と登録された印影が同一であること
(2) 証明するに不適当でないこと
昭和区役所窓口係員は前記手続を経て、本件印鑑を登録し、その登録された印鑑について印鑑証明書を発行したものである。
四 原告は、水谷たまの印鑑届及び印鑑証明書の交付申請が、壮年の男性によって行なわれたと主張し、これに対し水谷たまは、明治三四年生れの老婦人であるから、右壮年の男性とは同一人でないことは明らかであり、被告には過失があると主張している。
そこで、以下において、印鑑届及び印鑑証明書の交付の段階に分けて、この点につき反論する。
1 印鑑届の受理の段階
仮に、原告主張のように、壮年の男性自身が、「自分自身が水谷たま本人であるとして印鑑届等をなしたというのであれば、これを受理した昭和区役所係員に過失があるかも知れない。
しかし本件では、壮年の男性は水谷たまの息子を装って届出行為をしているのである。
印鑑登録の届出は、「本人の行為」であることの確認がなされなければ受理してはならないものであるが、必ずしも本人自身が「出頭」しなければできないというものではない。すなわち、代理人又は使者による届出も当然認められるものである。
この場合、正確に記載された届出書が、印鑑を添えて提出されれば、代理人又は使者でないと明らかに考えられる特殊な場合を除き、代理人又は使者による届出であると認め、これを受付けても、担当職員には過失はない。したがって、当然のことながら、代理人又は使者による届出の場合は、その性別、年齢は、届出が本人の行為であるかどうかの確認とは無関係である。
本件の場合、届出書の記載は、住民票の記載と一致しており、印鑑も添えられているので、仮りに本人自身が出頭していなかったとしても、これを代理人又は使者による届出として受け付けた点に過失はない。
また、区長は、この受付をした後「施行細則」第五条本文の規定に基づき、照会書を宅送し、「本人の行為なりや否やを確認する」手続をとっているのである。これを要するに、被告名古屋市が本人の行為であることの確認手続は次の二つの方法によっているのであり、これで十分というべきである。
(一) 「住民基本台帳」による審査手続
これにより届出人が、本人の住所、氏名、生年月日等を正確に記載できる者であるか否かを審査できる。一般に、正確に記載できる者は、本人自身か又はその身近かな者であるから、これにより本人の行為であることの確認のための補助的手段の機能が果されている。
(二) 照会書の宅送手続
これにより、直接、本人に照会し、本人の行為であるか否かの確認をすることができる。印鑑簿への登録は、右のような本人の行為であるか否かの確認手続を経た後になされるのである。
2 印鑑証明書の交付の段階
印鑑が登録されており、その登録された印鑑と同一の印鑑を所持している者から、印鑑を添えて、印鑑証明書の交付申請がなされた場合において、窓口係員が、その者に印鑑証明書を交付したときには、同係員には過失はない。
登録された印鑑(いわゆる実印)を所持している者は、通常、本人、その使者又は本人の代理人であると判断することができるからである。
本件では、水谷たまの印鑑は、すでに登録されており、水谷たまの印鑑(実印)を所持する者から、印鑑証明書の交付申請がなされたものであり、窓口係員に過失はない。
原告は、窓口係員が、委任状の呈示を求めなかったことは注意義務を欠いていると主張するが、たとえ窓口係員が委任状の呈示を求めたとしても大橋らの悪質、巧妙、計画的な犯罪行為を考えれば、同人らは水谷たまの登録印鑑(実印)を所持しているのであり、委任状を容易に偽造し得たであろうから、委任状を要求することによっては水谷たまの印鑑証明書の交付を避けることができなかったことは明らかである。
すなわち、大橋らは、委任状を直ちに偽造し、代理人欄に実名又は偽名を記載し、代理人として行動することによって水谷たまの印鑑証明書の交付を受けたであろうことは、容易に推測しうるところである。
五 さらに本件においては、大橋、櫟木らは、本件山林の水谷たま名義をほしいまゝに変更するため、巧妙な手段方法を弄したものであり、被告名古屋市の各係員では、とうてい、これを見破ることはできなかったのである。すなわち大橋、櫟木らは共謀して、水谷たま所有の本件山林につき、先ず、同人名義の登記関係文書を偽造し、これを行使して被告米倉名義に所有権移転登記をなし、因って、同被告がその名義の本件山林を売却する如く仕做して、他から売買代金名下に金員を騙取しようと企てたものであり、この目的を達するため、次のような綿密な準備行為をした。
1(一) 水谷たま関係の文書の偽造
同人の住所を中村区より昭和区に移動させ、同区において同人の印鑑登録をして同人名義の印鑑証明書を得ようとした。
(1) 昭和四五年四月六日名古屋市中村区役所において、住民転出届用紙の各所定欄にほしいままに「水谷たまが同日同市中村区東宿町二丁目八四番地から同市昭和区北山町三丁目二〇番地に転出する」旨の記載をして届出人欄に同人の親戚に当る「水谷良三」と冒書し、その名下にあらかじめ用意しておいた水谷名義の印を捺印し、水谷良三名義で水谷たまの住民転出届一通を偽造し、同日同所係員に対し右偽造にかかる転出届提出し、その結果同所係員をして、住民票の原本にその旨不実の記載をさせたうえ、不実記載の転出証明書の交付を受けた。
(2) 前同日同市昭和区役所において住民異動届用紙の各所定欄に、ほしいままに「水谷たまが同日同市中村区東宿町二丁目八四番地から同市昭和区北山町三丁目二〇番地に転入する」旨の記載をして届出人欄に「水谷たま」と冒書し、その名下に前記水谷印を押捺し、同人名義の住民異動届を偽造し、同日同所係員に対し右偽造にかかる異動届を提出し、その結果同所係員をして住民票の原本にその旨不実の記載をさせた。
(3) 前記原告の主張三の1(一)記載の如く前同日昭和区役所において水谷たま名義の印鑑届を偽造し、これを提出して行使した。
(4) 前記原告の主張三の2(一)記載の如く前同日昭和区役所において、水谷たま名義の印鑑証明書交付申請書壱通を偽造し、これを提出して行使し、これにより同人名義の不実記載の印鑑証明書の交付を受けた。
(5) 同年四月七日同市緑区鳴海町司法書士富田武貞方において、ほしいままに委任状用紙の委任者欄に「水谷たま」と冒書し、その名下に前記水谷の印を押捺したうえ、情を知らない右富田を通じて「本件山林につき登記名義人の水谷たまの住所を同市昭和区北山町三丁目二〇番地に変更した旨の所有権登記名義人表示変更(住所)附記登記手続を富田武貞に委任する」旨の記載をして水谷たま名義の委任状を偽造し、翌日名古屋法務局鳴海出張所において右富田武貞を代理人として右委任状記載のとおりの登記手続の申請をし、よって、水谷たまの住所変更の不実な表示登記をした。
(二) 保証書を偽造するための準備行為としてなした保証人(外山勝治)関係の文書の偽造は次のとおりである。
(1) 同年四月七日名古屋市緑区役所において、住民転出届用紙の各所定欄にほしいままに「外山勝治が同日同市緑区鳴海町字四本木三番地から同市千種区城山町一丁目六四番地に転出する」旨の記載をして届出人欄に「外山勝治」と冒書し、その名下にあらかじめ用意しておいた外山勝治の印を押捺し、同人名義の住民転出届を偽造し、右偽造にかかる転出届を提出行使し、その結果同所係員をして住民票の原本にその旨不実の記載をさせたうえ、不実記載の転出証明書の交付を受けた。
(2) 前同日同市千種区役所において住民異動用紙の各所定欄に、ほしいままに「外山勝治が同日同市緑区鳴海町字四本木三番地から同市千種区城山町一丁目六四番地に転入する」旨の記載をして届出人欄に「外山勝治」と冒書し、その名下に同人印を押捺し、同人名義の住民票異動届を偽造し、右偽造にかかる異動届を提出行使し、その結果同所係員をして住民票の原本にその旨不実の記載をさせた。
(3) 前同日前記千種区役所において印鑑届用紙の所定欄にほしいままに「名古屋市千種区城山町一丁目六四番地外山勝治」と記載してその印鑑欄に前記外山勝治の印を押捺し、同人名義の印鑑届を偽造し、右偽造にかかる印鑑届を提出して行使した。
(4) 同年四月八日前記千種区役所において印鑑証明書交付申請書用紙の所定欄に、ほしいままに「城山町1ノ64」「外山勝治」などと冒書したうえその印鑑欄に前記外山勝治の印を押捺し、同人名義の印鑑証明書交付申請書を偽造し、右偽造にかかる申請書を提出して行使し、これにより、不実記載の印鑑証明書の交付を受けた。
(5) 前同日前記司法書士方においてほしいままに委任状用紙の委任者欄に「外山勝治」と冒書し、その名下に前記外山名義の印を押捺したうえ、情を知らない右富田を通じて「同市緑区鳴海町字四本木三番地所在宅地につき外山勝治の住所を同市千種区城山町一丁目六四番地に変更した旨の所有権登記名義人表示変更(住所)附記登記手続を富田武貞に委任する」旨の記載をして、外山勝治名義の委任状を偽造し、翌日前記名古屋法務局鳴海出張所において富田武貞を代理人として右委任状記載のとおりの登記手続の申請をし、右その結果土地登記簿の原本にその旨の不実の記載をさせた。
(三) 前同様保証人「古村計義」関係の文書の偽造は次のとおりである。
(1) 同年四月七日前記緑区役所において住民転出届用紙の各所定欄にほしいままに「古村計義が同月八日同市緑区鳴海町字御茶屋六七番地から同市瑞穂区中山町二丁目一六番地に転出する」旨の記載をして届出人欄に「古村計義」と冒書し、その名下にあらかじめ用意しておいた古村計義の印を押捺し、同人名義の住民転出届を偽造し、右偽造にかかる転出届を提出行使し、その結果同所係員をして住民票の原本にその旨不実の記載をさせたうえ、不実記載の転出証明書の交付を受けた。
(2) 前同日同市瑞穂区役所において住民異動届用紙の各所定欄に、ほしいままに「古村計義が同日同市緑区鳴海町字御茶屋六七番地から同市瑞穂区中山町二丁目一六番地に転入する」旨の記載をして届出欄に「古村計義」と冒書し、その名下に前記古村計義の印を押捺し、同人名義の住民異動届を偽造し、右偽造にかかる異動届を提出行使し、その結果同所係員をして住民票の原本にその旨不実の記載をさせた。
(3) 前同日前記瑞穂区役所において印鑑届用紙の所定欄にほしいままに「名古屋市瑞穂区中山町二丁目一六番地古村計義」と記載してその印鑑欄に前記古村計義の印を押捺し、同人名義の印鑑届を偽造し、右偽造にかかる印鑑届を提出して行使した。
(4) 同年四月九日前記瑞穂区役所において、印鑑証明書交付申請書用紙の所定欄にほしいままに「中山町2ノ16」「古村計義」などと冒書したうえその印鑑欄に前記古村計義の印を押捺し、同人名義の印鑑証明書交付申請書を偽造し、偽造にかかる申請書を提出して行使し、これにより不実記載の印鑑証明書の交付を受けた。
(5) 同年四月一〇日同市緑区鳴海町司法書士佐野三郎兵衛方において、委任状用紙の各所定欄に、ほしいままに情を知らない右佐野を通じ「同町字御茶屋六七番地所在宅地につき古村計義の住所を同市瑞穂区中山町二丁目一六番地に変更した旨の所有権登記名義人の住所移転にともなう変更登記申請手続を佐野三郎兵衛に委任する」旨記載をして「古村計義」と署名し、その名下に前記古村の印を押捺して同人名義の委任状を偽造し、同日前記名古屋法務局鳴海出張所において右佐野三郎兵衛を代理人として右委任状記載のとおりの登記手続の申請をし、その結果土地登記簿の原本にその旨不実の記載をさせた。
(四) 水谷たまから被告米倉に所有権移転登記をするための保証書、不動産売渡証書等の偽造は次のとおりである。
(1) 同年四月一四日前記司法書士佐野三郎兵衛方においてほしいままに、(イ)あらかじめ「登記義務者の人違いのないことの保証書」用紙の保証人欄に前記外山・古村の住所氏名を冒書してその名下にそれぞれの印を押捺しておいた右保証書用紙を右佐野に提出し、情を知らない同人をして登記義務者欄に「水谷たま」と、不動産表示欄に本件山林を記載させて右両名名義の保証書を、(ロ)あらかじめ不動産売渡証書用紙の売渡人欄に「水谷たま」と冒書してその名下に前記水谷の印を押捺しておいた右不動産売渡証書用紙を右佐野に提出し、同人をして買受人欄に「名古屋市北区楠町大字如意字七軒屋敷壱壱参九番地の壱」「米倉金示」と、不動産の表示欄に本件山林と各記載させて水谷たま名義の不動産売渡証書を、(ハ)あらかじめ委任状用紙の委任者欄に「名古屋市昭和区北山町参丁目弐拾番地」「水谷たま」と冒書し、その名下に前記水谷の印を押捺しておいた右委任状用紙を右佐野に提出し、同人をして「前記売渡証書記載の山林の所有権移転登記申請を右佐野に委任する」旨の記載をさせて水谷名義の委任状を、それぞれ偽造した。
(2) 前同日前記名古屋法務局鳴海出張所において、右佐野を代理人として、本件山林につき右委任状記載のとおりの水谷たまから被告米倉への所有権移転登記手続の申請をし、土地登記簿の原本にその旨不実の記載をさせた。
以上に述べた大橋、櫟木らの一連の文書偽造関係の犯罪行為はこれを以って完了し、次いで、同人らは、いよいよ詐欺の実行にとりかゝり、同月三〇日前記司法書士佐野方において被告米倉が原告に対し、本件山林を売り渡したのである。
(五) なお、大橋らは前記犯行に備えるため、次のような行為もしている。
(1)被告名古屋市の行う照会書の宅送手続に対処するために、前記(一)の水谷たま関係では、昭和区北山町三丁目二〇番地北山町コーポラスの四〇三号室を「水谷」名義で借り受け、(2)前記(二)の外山勝治関係では、千種区城山町一丁目六四番地誠山荘二二号室を借り受け、(3)前記(三)の古村計義関係では、瑞穂区中山町二丁目一六番地、中山荘G号を借り受け入口の柱に「古村」の貼紙をしているのである。
2 以上1で述べたところから明らかなことは、大橋らは、被告名古屋市の印鑑届事務を扱う係員を欺罔するためにその手段として、高度な注意を以ってしても見抜くことが不可能な極めて悪質、巧妙、計画的な方法をとっていることである。すなわち
(一) 印鑑登録の届出に際しての住民基本台帳による審査手続をくぐりぬけるために、大橋らは、(1)中村区役所における水谷たまの住民転出届の偽造および住民票原本への不実記載、(2)昭和区役所における水谷たまの住民異動届の偽造および住民票原本の不実記載の犯罪行為をなしているのである。
大橋らは、右行為により、昭和区役所備えつけの住民票原本に、水谷たまが「名古屋市昭和区北山町三丁目二〇番地」に住所を有するかの如き不実の記載を完成させたのである。大橋らの行為は、住民基本台帳法が「住民としての地位の変更については届出を原則」(同法二一条)としていること、及び、市町村長の住民票記載事項の調査が原則として定期にしかなされないこと(同法三四条)を悪用した巧妙、悪質かつ計画的なものである。
右により、大橋らは、被告名古屋市の印鑑届事務を扱う係員を完全に欺罔することに成功し住民基本台帳による審査を台無しにしてしまったのである。
(二) 大橋らの周到さは、更に、被告名古屋市による照会書による審査の段階にも、顕著に現われている。すなわち大橋らは、印鑑届に際して水谷たまの住所として届出た「名古屋市昭和区北山町三丁目二〇番地北山コーポラス四〇三」を、水谷名義で借り受けているのである。ここまで巧妙にやられては対処する方法もない。大橋らは、宅送された照会書を受けとり、回答書を印鑑届事務を扱う係員のもとに持参し、係員を、ここにおいても完全に欺罔することに成功したのである。
六1 そもそも、市町村が行う印鑑の登録および証明に関する事務は明治以降、市町村制ないしは地方自治法の極めて抽象的規定のみを根拠として、各市町村によって、それぞればらばらに、制度的な統一もなく行なわれているものであるが、このような印鑑証明制度は、地域社会が小さく、かつ人口の流動が少なく、自分の地域社会に誰が住んでいるかということが極めて容易に知り得る社会を前提としていたのである。右のような社会においては、実印と印鑑証明を併用することによって、即ち印鑑証明制度によって、本人の意思の確認が高い蓋然性をもって推認し得たのである。
ところで、印鑑証明制度がそのよって立つ基盤とした前提は、多くの大都市においては現在では消失するに至った。巨大な都市圏が形成され激しい人口の流出入が常態となっている今日の都市型生活では、隣人との関係は極めて薄いものとなってしまったのである。右のような社会状勢は、逆に、以前は必要としなかったようなものについても、印鑑証明書を要求することとなり、印鑑証明に関する事務量を膨大なものにするに至ったのである。
今日、市町村は、印鑑証明書に対する住民からの需要の増大と、印鑑証明書の不正使用による住民の権利侵害の防止との二律背反的な要求の間に立たされているのである。
2 被告名古屋市が、印鑑届に際して、「届出が本人の行為ナリヤ否ヤ」の確認のために行う住民基本台帳による審査および照会書による確認という方法は、窓口係員の主観的能力に強度に依存することのない客観的なものであり、「本人の行為ナリヤ否ヤ」を確認する方法としては、極めて慎重なものであり、かつ、確認の蓋然性の高いものである。
印鑑届の事務を扱った係員は定められた手続を慎重に行っており、過失は全くない。
七 原告が蒙ったとする損害と被告名古屋市の印鑑証明に関する事務との間には、相当因果関係が全く存在しない。
1 相当因果関係が、全く存在しないことは、印鑑証明の機能からも明白である。
印鑑証明は、押印された印鑑が、登録された印鑑と同一のものであることを証明するのみである。(印鑑証明書の記載文言に則して言えば、「この印鑑は、登録された印鑑と相違ないことを証明する。」ということである。)すなわち、ある印鑑が、登録された印鑑と同一のものであることを証明するのみであり、それ以上のもの、例えば、印鑑証明書を持参している者が、本人であることを証明するとか、又は契約書、申請書等の文書が、本人の意思に基づいて真正に作成されたものであることを証明するとか、いうものではない。一般に、契約の一方の当事者が、他方の当事者に対し印鑑証明書を要求するのは、これが提出されることにより、他方の当事者の意思が真意であることの一つの判断材料としているのであり、印鑑証明書自体が、他方の当事者の真意であることを証明しているのではないことは、言うまでもないことである。すなわち、契約の有効無効は、印鑑証明書それ自体とは何らの係り合いを持たないものである。
ところで、本件では、原告が損害を蒙ったとする被告米倉との取引行為それ自体について、水谷たまの印鑑証明書そのものが現われてさえもいない。すなわち、原告と被告米倉との取引について、右に述べた判断材料としてでさえ、現われてこないのである。
2 さらに、原告が蒙ったとする損害が発生するに至るまでには、被告名古屋市の印鑑証明事務の後に、大略して言えば、(イ)本件土地について被告米倉のために不実の所有権移転登記がなされた事実、(ロ)原告と被告米倉との間に、本件土地について売買契約がなされ、それが無効になったという事実が単純な条件関係としても必要である。
しかしながら水谷たまの印鑑証明書の交付という事実と、右(イ)の被告米倉への不実の所有権移転登記という事実との間には、相当因果関係はなく、いわんや右(ロ)の原告と被告米倉との間に売買取引に関しては、相当因果関係は全く存在しない。
(一) 「水谷たま」の印鑑証明書の交付は、直ちに、不実の所有権移転登記を導くものではない。
(1) 印鑑証明書は、それ自体単独で使用されることはない。契約書、申請書等に添付するという方法で使用されるものである。したがって、窓口係員が、水谷たまの印鑑証明書を交付する際においては、その印鑑証明書が登記申請に使用されるということが明らかになっているわけではない。すなわち、窓口係員には、印鑑証明書の使用目的は全く判らないのである。水谷たまの印鑑証明書が登記申請に使用されることになったのは、大橋らの意思によるものである。
(2) しかも、水谷たまの印鑑証明書の存在そのものが、登記内容を不実にするものではない。登記が不実となったのは、大橋らが内容虚偽の登記申請をしたためである。
(3) 大橋らは、水谷たまの印鑑証明書を入手したものの、水谷たまの登記済証を所持していなかったので、被告米倉のために所有権移転登記をすることができない。そこで、大橋らは、さらに悪質、巧妙、計画的な方法により、不動産登記法第四十四条の二の手続を行なっている。すなわち、「外山勝治」「古村計義」の印鑑届を偽造し、印鑑証明書交付申請書を偽造し、登記のための委任状を偽造し、これにより外山、古村両名所有の土地の登記に関し、それぞれ表示名義人変更(住所)附記登記を完了させたのである。そうして、両名の偽造印鑑を用いて保証書を作成し、登記申請の間違いなきことの虚偽の申出をし、登記官に不実の所有権移転登記の申請書を受理させたものである。
水谷たまの印鑑証明書は、大橋らによって登記官に向けられて使用されている。しかし、本件においては、水谷たまの印鑑証明書のみでは、所有権移転登記ができないことは、右に述べたところにより明白である。特に本件は、保証書による所有権移転登記手続申請であるので、登記官により登記義務者である水谷たま宛に、不動産登記法第四十四条の二に定める通知を郵送して、水谷たまの意思の確認を独自の方法でしている。大橋らは、これに対しても、偽りの回答書を提出し、登記官を欺罔しているのである。
水谷たまの印鑑証明書の交付からは想像することのできない極めて多種多様の手段を経て被告米倉の所有権移転登記が完成したのである。
右に述べたとおり、印鑑証明書の発行があれば、直ちに虚偽の内容の登記申請ができ、登記簿原本に不実の記載をさせることができるというものではない。窓口係員には、全く予測だに出来ないところである。
(二) 水谷たまの印鑑証明書の交付が、直ちに、原告が蒙ったと主張する損害の発生を導くものでもない。
原告は、本件土地の売買契約が無効になったことにより、損害を蒙ったと主張する。本件土地の売買契約が成立するためには、原告と被告米倉との取引の交渉において、原告が本件土地を被告米倉の所有と信じ、さらに、原告が本件土地を買い入れようという意思決定をすることが必要であった。原告は、被告米倉、大橋らの欺罔行為によって錯誤に陥いり、被告米倉を信頼して売買契約を締結したものであると思料される。すなわち、原告が蒙ったとする損害の原因は、かかる大橋らの詐欺的行為であって、水谷たまの印鑑証明書の交付ではない。
このことは、原告と被告米倉との取引において、水谷たまの印鑑証明書が出てさえいないことからも明らかである。水谷たまの印鑑証明書は、もう用済みであり、原告と被告米倉との取引において印鑑証明書が問題となるとすれば、それは被告米倉のものであったはずである。
第三証拠《省略》
理由
第一被告米倉に対する請求
被告米倉は原告の請求原因一事実につき答弁せず、これを明らかに争わないので、自白したものと看做すべきである。そして、右事実によれば、原告の同被告に対する請求は理由がある。
第二被告鄭に対する請求
一 原告の被告鄭に対する首位的請求について案ずるに、同被告が大橋、櫟木、金京元らと共謀して本件山林の売買代金名下に原告から金三八九六万円を詐取したとの点に関する《証拠省略》は、にわかに採用し難いものがあり、《証拠省略》も未だ、この点についての証拠とはなし難く、他にこの点の証拠はない。してみると、原告のこの請求はその余の点を判断するまでもなく失当というべきである。
二 原告は、被告鄭が被告米倉より受領した本件山林売買の仲介料金一〇〇万円は不当利得として被告米倉に返還すべきである旨主張するところ、同被告がこれを受領していることは当事者間に争いがない。そして、《証拠省略》によると、被告鄭は、大橋から本件山林の売却方を依頼された金京元より、買主を探してくれるよう依頼を受け、訴外京山こと都文錫らに口をかけてやり、結局、同人の仲介により原告と被告米倉間に本件売買が成立したこと、被告米倉は原告より受領した売買代金中より、金京元、都文錫、被告鄭らに金五〇〇万円を交付し、被告鄭は金一〇〇万円の配分を受けたものであることが認められる。しかし、右金員の性質が右の如きであるにせよ、直ちに、右売買が無効であるとの一事によって、右金員が被告米倉に対する関係で被告鄭の不当利得となるものではないから、この予備的請求も理由がないものといわねばならない。
第三被告名古屋市に対する請求
一 原告主張三の1(一)のうち、昭和四五年四月六日昭和区役所において昭和区長に対し、所定の印鑑届用紙の住所欄に、「名古屋市昭和区北山町三丁目二〇番地北山コーポラス四〇三」と、世帯主欄に「水谷たま」と、氏名欄に「水谷たま・明治三四年七月八日生」と各記載され、印鑑欄に水谷名義の印影が押捺された印鑑届が提出され、右印鑑届は印鑑届受付簿に登載されたこと、その後同日同区役所において昭和区長に対し、所定の印鑑証明書交付申請書用紙の住所欄に、「昭和区北山町三―二〇」、氏名欄に「水谷たま明治三四年七月八日生」と各記載され、印鑑欄に前記水谷名義の印影が押捺された印鑑証明書交付申請書が、右水谷名義の印章とともに提出され、同区役所係員が水谷たま名義の印鑑証明を発行したことは当事者間に争いがない。
そして、右事実と、《証拠省略》を総合すると次の事実が認められる。
1 大橋、櫟木らは共謀して水谷たま所有の本件山林を勝手に自分らの仲間の所有名義にしたうえ、これを善意の第三者に売却し、代金名下に同人から金員を詐取しようと企て、被告主張四の1(一)記載の如く、偽造にかゝる水谷たま名義の印鑑を使用して、先ず、同人の住所を名古屋市中村区より同市昭和区に移動させ、同区において偽造印を登録して同人名義の印鑑証明書の交付を受けたこと、被告主張四の1(二)、(三)記載の如く本件山林について所有権移転登記をするための保証書を偽造するため、勝手に、同市緑区内に実在する「外山勝治」、「古村計義」名義を冒用し、同人らの各住所を前者は同市千種区に、後者は同市瑞穂区に各移動させ、それぞれ、新住所において、偽造にかゝる各印鑑届出をして各印鑑証明書の交付を受けた。
2 大橋、櫟木らは、被告米倉と共謀して、被告主張四の1(四)記載の如く、前記偽造にかゝる「外山勝治」、「古村計義」の各印鑑を使用して、本件山林につき右両人名義の保証書を偽造し、よって水谷たまの前記偽造印を使用することにより、本件山林につき、水谷たまより被告米倉名義に所有権移転登記を経由した。
3 なお、大橋、櫟木らは、前記各印鑑の偽造に備えるため、被告主張四の1(五)記載の如く綿密周倒な準備をしていた。
4 かくして、大橋、櫟木、被告米倉らは共謀し、昭和四五年四月三〇日原告に対し、本件山林が被告米倉の所有の如く装ってその買受方を申し入れ、原告をしてその旨誤信させ、因って、同日、右代金名下に金三八九六万円を交付させてこれを詐取した。
5 水谷たまないしその相続人らは原告を相手取り、本件山林につき所有権移転登記抹消登記手続請求の訴を提起し、その勝訴判決により、原告名義の右登記は抹消されるに至った。
以上の事実が認められ、他に、これを左右するに足りる証拠はない。
二 原告は、大橋、櫟木、被告米倉らが共謀してなした偽造にかゝる水谷たま名義の印鑑届につき、昭和区役所係員には確認義務を尽さなかった過失がある旨主張する。
1 印鑑届出人の水谷たまは、明治三四年七月八日生れの老女であることは明らかであるところ、《証拠省略》によれば、当時、昭和区役所係員に、右印鑑届を提出したのは櫟木であり、同人は昭和五年二月五日生れの男性であること及び、右係員はその際、櫟木に対し水谷たまとの関係につき尋ねることなく、また、代理委任状を徴しなかった事実(代理委任状を徴していないことは当事者間に争いがない)が認められる。
2 《証拠省略》を総合すると、昭和四五年四月当時、名古屋市の印鑑登録事務は「条例」及び「施行細則」に基づいて行われていたが、その手続は、(一)先ず印鑑の登録を受けようとする者は、印鑑届の所定の記載欄に所定事項を記載し、登録しようとする印鑑とともに住所地の区役所に提出して届出ること、(二)区役所は届出を受けたときは、届出人が住民基本台帳に記載された者であること及び登録するに不適当な印鑑でないことを審査のうえ印鑑届を受理すること、(三)受理したときは、本人(届出人)に照会し、本人の行為であることを確認した後印鑑を登録すること(条例に、その届出が本人の行為であることを確認した後印鑑簿に登録すべき旨の規定があることは当事者間に争いがない)、右照会の手続は(イ)印鑑届記載の住所へ照会書を通達員として宅送すること、(ロ)照会書は封筒に入れ親展扱いとすること、(ハ)本人は回答書(照会書の下半分を使用)を区役所へ持参し又は郵送する方法によっていたことが認められる。
3 印鑑証明は、ある印影が、先に本人の印として市町村役場備付けの印鑑簿に届出てある印鑑と同一である旨の証明であり、右制度は古く明治初年に始まり明治二一年の市制及び町村制により、市町村に属する事務として処理されるに至り、戦後は、地方自治法の規定により、地方公共団体の固有事務とされるに至ったが、その取扱いについては、統一的な定めはなく、各市町村により、それぞれ、条例もしくは慣習で処理され、名古屋市においては昭和四五年四月当時「条例」及び「施行細則」で処理されていた。ところで、印鑑登録の基盤をなすものは人の同一性の確認及び登録意思の確認であり、この確認が正確に行われることによって始めて印鑑証明制度の適正な運用を期し得るものということができる。したがって、右の確認は軽々にこれを扱うべきでなく、慎重な注意を払ってなさるべきことは理の当然である。しかしながら印鑑証明制度は、その成立の基盤を、戦前における人口の流動が少く、また、比較的安定した小型の地域社会を前提としたものであり、このような地域社会においては本人の確認が容易であるので、本人の実印と印鑑証明を併用するという印鑑証明制度によって、容易に本人の意思の確認が可能であったところ、戦後、右制度がその依って立っていた基盤は、多くの都市においては変貌するに至ったことは当裁判所に明らかなところである。即ち、昭和三〇年後半以降における都市部を中心とした急激な人口の増加傾向と流動性、社会経済生活の複雑多様化等の社会現象は、印鑑証明制度における本人の確認を事実上著しく困難にするとともに、印鑑証明の需要は極めて増大し、市町村の処理すべき印鑑証明の事務量は増加しており、昭和区役所係員が昭和四五年四月当時本件印鑑届受理した当時においてもそのような状勢にあったものと推認することができるのである。このように大量的、集団的の印鑑証明事務の迅速な処理と、本人の確認の困難によって生じるおそれがある印鑑証明の不正使用の防止との調整のため、名古屋市においては、前記「条例」及び「施行細則」(これらは戦後、数次に改正を経た)に基づき印鑑証明事務を処理していたものであり、本人及び登録意思の確認としては、先ず住民基本台帳による審査によりこれをなし、次に、届出名義人に文書照会し、その回答書を本人が持参するという方法を採っていた「条例」及び「施行細則」による事務処理は相当であると考えられる。
4 しかるところ、前記一で掲げた各証拠によれば、昭和区役所係員は、水谷たま名義の印鑑届に記載された同人の住所、氏名、生年月日等を住民票記載のそれと照合して審査し、また、右住所に照会書を宅送し、その回答書を得た後、右印鑑を登録したことが認められるので、「条例」及び「施行細則」に違背するところなきものというべきである。尤も、本件においては前記一認定の如く、大橋、櫟木らは昭和区役所係員を欺罔して水谷たま名義の印鑑登録をするために、極めて、計画的にして悪質巧妙な方法をとっているため、右係員が「条例」及び「施行細則」に従ってした本人確認の方法はすべて徒労に終り、結果的に水谷たまの偽造印を登録することとなったわけであるが、このような計画的犯罪行為によって偽造印鑑が登録されることを予想し、その可能性の大きいことを設定して、これを防止し、これに対処し得べき有効適切な手段方法を、区役所係員に期待しこれを義務付けることは酷に失するのであって、右係員に職務上の注意義務違反はないものと解するのが相当である。
この点につき、原告は、「施行細則」五条但書に「本人に面識あるときは本人に対する照会を要しない」旨の規定があることを論拠とし、「条例」、「施行細則」が要求している「確認」は、本人の届出行為を現認する場合に比肩し得る程度の厳格さを要求するとして、係員は、その面前で本人の同一性を確認し、或いは、届出名義人と実際の届出人とが同一人でないことが明白である本件では、代理委任状を徴すべきであった旨主張する。しかし、印鑑証明制度の現下における基盤、機能が二つの相反する要請の調整の上に成り立っていることに想いを致すとき、原告の右主張はにわかに採り難いものがあるうえ、前記一認定の事実関係の下では、たとえ、係員が何らかの方法により本人の同一性を確認し、或いは代理委任状を徴したとしても、水谷たま名義の偽造印の登録を防止し得たとは、とうてい認め難いところであるので、原告のこの主張は採ることができない。
三 次に、原告は、大橋、櫟木、被告米倉らが共謀してなした水谷たま名義の印鑑証明書の交付につき、昭和区役所係員には確認義務を尽さなかった過失がある旨主張する。
1 前記二1認定の如く、水谷たまは明治三四年七月八日生れの老女であり、櫟木は昭和五年二月五日生れの男性であるところ、《証拠省略》によれば、当時水谷たま名義の印鑑証明申請をしたのは櫟木であること、昭和区役所係員は櫟木に対し代理権の有無、水谷たまの委任状の有無を確認することなく、即時、印鑑証明書を発行したことが認められる。
2 《証拠省略》を総合すると、昭和四五年四月当時名古屋市の印鑑証明申請事務は「条例」及び「施行細則」に基づいて行われていたが、その手続は、区長は、登録印鑑と同一の印鑑を所持している者から、印鑑を添えて、印鑑証明申請がなされたときは、印鑑証明書を発行することとなっていたことが認められる。
3 原告は、申請名義人水谷たまと実際の申請人櫟木とが一見して別人であることから「条例」七条に、「登録ヲナシタル印鑑ハ請求アルトキハ区長コレヲ証明ス。但シ、区長ニオイテ不適当ト認メタルトキハ此ノ限ニ在ラズ」とあるのを根拠として、係員は本人の同一性を確認しない以上、「証明スルヲ不適当」として、印鑑証明書を発行すべきでなかった旨主張する。なるほど、《証拠省略》によれば、「条例」には右の如き規定が存することが認められる。しかし、前記二3で説示したところをも勘案すると、申請名義人と実際の申請人が明らかに別人であるということから直ちに、区長が「証明するを不適当」と認むべき場合に当るとはいい難い。けだし登録された印鑑を所持している者は、通常、本人、その使者又はその代理人であると推認することができるからである。しかも、前記一認定の本件事実関係の下においては、係員において、櫟木に対し代理権の有無を確認し、或いは水谷たまの委任状の呈示を求めたとしても、櫟木は右の委任状を直ちに偽造し、或いは代理人として行動することによって、水谷たまの印鑑証明書の交付を受けたであろうことは容易に推測し得るところであり、したがって、委任状を要求することなどによっては、右印鑑証明書の交付を避けることができなかったものと認められる。
以上によれば、印鑑証明書の交付につき、昭和区役所係員に過失があったとはなし難い。
四 叙上の次第であるから、昭和区役所係員に印鑑証明事務の処理につき過失があったことを前提とする原告の被告名古屋市に対する請求は、その余の点を判断するまでもなく、失当として棄却を免れない。
第四結論
よって、原告の被告米倉に対する請求を認容し、被告鄭均漠同名古屋市に対する請求を棄却し、民訴法八九条、一九三条を各適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 可知鴻平)
〈以下省略〉